「ことばって本当に大切」と、ひしひしと感じています。

どんな言葉を使うかは、もちろん大切だけれど、どんな気持でことばを使うかが、もっと大切。

 

大人が子供を叱る時

子供のためではなく、自分の立場、やつあたり、勢いだけで叱ろうものなら

言葉を発するその声は、騒音にしか聞こえません。

よって

やかましいわい!となってしまいます。

 

やっちまったってこともそりゃありますよね…、人間ですもの。

 

このことは、職場でも学校でも家庭でも、人間が存在するところならどこでもありえます。

 

もう何十年も前のことになりますが、学生時代経験した母校での教育実習。

当時の中学校は少しだけ荒れていて、とあるクラスでの授業中のこと。

一人の女子生徒が教室内で徘徊し始めました。

でも

他の生徒の邪魔をしているわけでもなく、ただ徘徊。

 

からの、テラスへお散歩。

まっ、そのうち戻ってくるだろうと、放置したんです。

そしたら本当にすぐに戻ってきて

足をみると、雪駄。

 

戻ってきてからは退屈そうに座っていて

授業が終わってからテラスに出たその生徒に

「で、なんで雪駄なん?」って声をかけると

笑って、何か答えてくれたのですが、なんて答えたかは忘れてしまいました。

 

以来、彼女は私によく話しかけてくれ、徘徊は、気にしてもらいたかっただけなんだと後になってよく思い出します。

 

「上履きをはかずに雪駄を履いているなんて、校則違反!」って叱ることもできたでしょうが

純粋に、雪駄は危なくない?と当時の私は思ったのではないかと。

むかし、むかしのお話でした。

 

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こうして振り返ってみると、昔のわたしのほうが純粋だったように思えます。

現在、私はひとりで仕事をしているのですが

仕事を依頼される時、依頼者の仕事に対する姿勢をまざまざと見せつけられます。

 

依頼されてから納品まで、スムーズに事が運ぶ人は

ビジョンが明確であり

自らが持っている物やサービスを単に売ろうとしているのではなく

とにかくお客様に喜んでもらおうの気持が先にあり

その後からお金が入ってくると心底信じているように思えます。

だから、こういう人と仕事をする場合、ものすごく気持がいい。

 

口ではお客様のためと言いながらも、結局は利益重視である場合

また、言っていることと気持が違っていたり、明確なビジョンがない場合

形になる前に、途中でやっぱ、止めときますとなる傾向にあります。

 

そこに愛はあるんか?

 

教育実習を経験した学生時代のピュアさは私にはもうなくて、良くも悪くも知恵がついた今の私は

Foreverは重すぎるから、Loveを心に刻みたいღ

 

最後までおつきあい下さり、ありがとうございますღ’ᴗ’ღ ᵗᑋᵃᐢᵏ ᵞᵒᵘ*

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